政治猫

猫が政治に戯れています

取り残された層からどうやって支持を再獲得するか?

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民主主義のよさの一つは勝者の流動性である。

今回の選挙で敗北しても次の選挙で勝利できる可能性があるから、今回の敗北を受け入れられる。それは政治家や政党にとってもそうだし、その政治家や政党の支持者にとってもそうだ。次回政権を取れる可能性が保障されているから、民主主義という政治体制を受け入れられる。

 

その意味で民主主義は勝者と敗者が流動的で、制度に対する不満を出にくい政治制度といえるが、それでも民主主義という政治制度への不満は存在するし、それはラディカルな政党の躍進や民主主義制度自体を否定(独裁や軍事政権の容認)というかたちで表出されることがある。

 

それは時代や国を問わない。

 

米国大統領選挙のトランプ、サンダース現象はまさにそれであるし、日本にだって起こる。

 

戦前まで遡れば、1936年の総選挙は、立憲政友会の大敗、民政党の大勝という結果となったが、それ以上に大きな特徴だったのは、労農系の革新的政党が躍進であった。

 

当時のジャーナリストはこの結果を、階級闘争として捉え、ブルジョア政党への不信票が無産政党に向かったと分析した。

 

対して、三輪公忠は中央対地方という図式で捉えるべきとする。当時の日本の知的エリートは、「大正デモクラシー」を西欧流の「近代化」と同一線上に歴史の発展と捉えていた。日本の中央の文化がコスモポリタン的性格を持ち西欧議会民主主義に親和感を抱き、反面、日本国内の都市と地方との構造的な対立を忘れていたと指摘する。労農系政党の躍進は中央の政治から参加するものとしては考慮されたことがなく単に統治の対象としてしか認識されていなかった地方からの批判票であったとする。

 

また、大正デモクラシー以後の日本政治ではしばしば大物政治家がテロや軍部によって排除されてきた。たとえば、原敬首相は金権政治を批判する国鉄職員によって暗殺され、ロンドン軍縮条約に反対する青年によって浜口雄幸首相が狙撃されたり、5・15事件で犬養毅首相が殺害されたりしている。

 

だが、こうした非民主的な行動はしばしば国民の支持を得た。この現象を阿部真之助は、政党政治が時間の経過にしたがって一般民衆の利害から遊離するようになり、政党が世の中の要求に沿わなくなってきたため、軍部が民意を代表しているかのごとくになったとしている。

 

三輪は、地方では政党政治への批判があり、そこから軍部への期待が生まれていたが、中央のジャーナリズムは議会制民主主義を支持していたことから、その政党政治への反発が、軍部との連携によって農村の難局の打開を図ろうとする山形県置賜農民運動などの決起計画といった過激な方向性に進んでいることに思い至ることはなかったとする。その上で、もし地方の反発を中央の政治に反映する方法を西欧的なリベラリズムに思想の枠組みのなかで処理できるような独創的な構想を思い当たることができていたなら、と指摘する。

 

しかし、中央なジャーナリズムはそのように理解しなかった。地方の農村部だったこともあり、地方の農村部の中央への反発は前近代的な価値観と同一視され、反知性的な動きと捉えられてしまった。

 

前述のとおり、1936年の選挙での革新系政党の躍進はブルジョア政党への反発と評価されてしまった。しかし、三輪はブルジョア政党への批判としてのみ捉えるのは一面的であるとする。というのも、ブルジョア政党への批判というだけでは、あくまで問題なのはその政党であって民主主義や政党政治という制度そのものへの反発とまでは発想が及ばなくなってしまうからである。

 

トランプが共和党の大統領候補になったことやサンダースの躍進をほとんどの専門家は予想できなかったが、その要因としてワシントンDCの政局ばかりを追っていると、それ以外の地域での動きが見えにくくなるとの指摘を聞いた。ワシントンDCの所得平均は他の地域よりも高く人々の政治的意識も高い。その意味でワシントンDCの人々はトランプやサンダース現象を支えた非エスタブリッシュメント層がもっとも嫌う層の人々だったのかもしれない。永田町の常識は国民の非常識といった表現もあるが、政治の中心や首都といった中心部にいると周辺地域(都市部の底辺層や地方)の動きが見えなくなって、彼らを包摂する思考が失われ、気がつけば周辺で制度自体への反発が高まっていることになりかねない。

 

冒頭で民主主義の長所は勝者の流動性と書いたが、周辺部から見れば、周辺部が勝者になる可能性をほとんど感じていなかったかもしれない。日本でいえば、自民党民進党、米国であれば民主党と共和党、いずれも結局が政治に関心がある意識高い系や政府に圧力をかける資金力のある圧力団体を有する業界にしか反応しないんでしょ、と周辺部が冷めていれば、制度自体への反発や制度自体の破壊をもたらしそうな過激な政党を支持したくもなるのだろう。

 

いつまでたっても勝者になる順番が来ないと冷めてしまえば、制度自体への支持も冷めてしまうものだ。制度の維持(憲法も含めて)を求めるのであれば、制度に挑戦する可能性がある人々をどう包摂するか、何度かこのブログで言っているが、この問いに対する答えを見つけなければならない。

 

今日はこのへんで。

 

参考文献

三輪公忠『共同体意識の土着性』三一書房、1978年。